どくたまの独り言 Part2

どくたまによる、どくたまのための、徒然なる独り言。

昨日の(今朝の1/11の)日記に関して・その3

最後に“死”を宣告するのが僕ら医師なのは、昨日の日記にも書きました。医学的に見て、どんなに死んでいる事が疑わしくても、法的には僕らが死の宣告をするまでは、その方は生きている訳です。

だから、医学的に死んでいると思われても、家族の目の前で死の宣告をする事は、まだ生きているうちに家族と対面できた。
これは僕の自己満足だと思いますが僕はそう考えています。
医学的には“ご遺体”でも、家族にはまだ“ヒト”なんだよ、と。

だから、昨日の出来事を、僕はやっぱり“殺した”と思ってしまう訳です。
生きている、と思っていた家族が、患者さんと会った時にはすでに死んでいたわけですから。
他人の生と死の境界線を引く行為。そして、それを決めたのは僕。
これは、やっぱり家族から見たら“殺す”という行為にしか、僕は思えないわけです。

そして、もし、そう判断した僕の“知らないこと”があったら。
たとえ誰が見ても大丈夫と思える事でも、昨日のような出来事でも、いわゆる病死であっても、それは僕の“罪”だよな。

それがわかるのが、今かもしれないし、
それがわかるのが、ずっと先かもしれないし、
それがわかるのが、僕が死んでからかもしれないし。

ヒトの命に関わる以上、この“罪”の意識は、忘れちゃいけないよな。
そう思ってしまう訳です。

だから、“お見取り”という行為は、他人の生死の境界に係わった僕にとって“殺した”という表現になってしまうんです。
 

いま、この日記を書いている最中に、何人かから
『そこまで考えるのは、考えすぎじゃないの?』
といった話をもらいました。
 
この表現を 嫌う方もいるでしょう。
賛同する方は・・・少ないでしょうね、この感じだと。
でも、これは僕が、医者として生きている考え方の根幹にあるところ。

不快に感じた方がいれば、素直に謝ります。ごめんなさい。
でも、こう思ってしまう僕は変わりません。
それもごめんなさい。

長々書きましたが、こんな僕です。